読書のブログ 記録代わりに

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読書記録154(2021年19冊目) 日本キリスト教史 五野井隆史 著 吉川弘文館 読書期間2021年3月15日~22日

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日本はフランシスコ・ザビエルの布教以来、秀吉の禁教令、徳川幕府の過酷な弾圧、大日本帝国政府の干渉などにより、自由な布教活動ができなかった。唯一、自由な布教活動が許された時期は織田信長が天下を取ったときというところが歴史のいたずらを感じさせる。そして、真の意味でキリスト教が、自由な布教活動ができるようになったのは、大日本帝国が敗戦してからである。一体、それまでにどれだけの人数のキリスト教徒が、秀吉や徳川、大日本帝国に殺されたか。考えるだけで恐ろしい。

私たちが生きている日本は、キリスト教に冷淡な国とみたほうがよい。

いくら、麻生太郎が、カトリック信者であろうが、カトリックが戦時中、戦争協力をさせられた事実は、日本の国家権力層は、キリスト教へまたもや牙をむくかもしれないとさえ思える。とにかく、日本は、いつ、なんどき、天皇制国家へ一元化しないとも限らないからだ。

日本国憲法は確かに信教の自由を認めているが、語の真の意味で、そして、日本国民が信教の自由の意味を内面化できるか、それはまだまだ遠い道のりとさえいえる。

日本人がキリスト教を「自然」と感じられるようになったらそのときこそ民主主義の実現であるといってよいくらいだ。

本書は、日本とキリスト教の対決史といっても良い本である。
本書を読めば、わかるのは、日本歴史の権力者層でキリスト教を護教したのは、一向宗徒を壊滅させ、比叡山を焼き討ちにした織田信長である。
織田信長は、自ら神と呼ばせたがっていたから、イエズス会は懸念があったが、秀吉、家康、江戸幕府、昭和の敗戦を迎えるまでキリスト教は、日本と対決する運命にあった。
それが、神の導きなのか。
私が、感じたのは、秀吉や、徳川、明治新政府が日本の神と表現することが、違和感を感じた。神に国籍があるのだろうか。
当然ながら、日本の神とは、nationとしての神だが、nationとしての神は、唯一神信仰のユダヤ、キリスト、イスラム教には、ありえないのではないか。だから、唯一神は、世界宗教である。
宗教は、ユダヤ、キリスト、イスラムなどの唯一神と、nationとしての多神教がある。
われわれは、どちらか、選ぶ必要があるのだろうか。
迷った末に無神論という考えもある。
だが、無神論は、日本でのキリスト教信者への過酷な弾圧を知ると、逃げにしか見えない。
ゆえに、われわれは、日本権力層が弾圧したキリスト教の迫害された歴史を知る必要がある。
それを、知ってから、宗教批判や、無神論を唱えられる資格を得られる。

 

日本キリスト教史

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