読書記録122(2020年55冊) 聖書 日本聖書協会 発行 2020年10月25日読了
2年位前から少しずつ聖書を読んできた。
教養として身に着けたいだけであった。
発見だったのは、イエス・キリストと12使徒を迫害しようとしてきた者へペトロが剣で耳をそぎ落とし、イエス・キリストが「もうよいそれくらいにしておけ」と言ったことである。この言葉を見ると、イエスという人物の二面性が見える。
「罪を赦しなさい、人を赦しなさい」というイエスと「もうよいそれくらいにしておけ」というイエスという人物の二面性がわかる。
ちなみに、キリストはギリシャ語で、メシアという意味である。
生前、イエス・キリストに出会っていない、さらには、12使徒を迫害した(というかこの時点で11使徒なのか。イスカリオテのユダがイエスを裏切って使徒から脱退したから)サウル(ヘブライ語ではそう呼ぶ)が、イエスが「サウルよ、サウルよ、なぜ、私を迫害するのか」という声を聞き、目がつぶれ、キリスト教の信者アナニアが祈りをして、サウルが回心したら目から鱗のようなものが落ちて、その後、パウロはヘレニズム世界へ布教へ旅立つ。パウロはヘブライ語とギリシャ語ができるバイリンガルだったのである。そのせいなのか知らないが、イエス・キリストはギリシャ語のメシアを意味するキリストが付けられているのだろうか。旧約聖書には続編もあり、「エズラ記」という章にはラテン語版とギリシャ語版がある。もっとも日本語訳なので、我々、日本人は、ラテン語版、ギリシャ語版を日本語訳で読むだけのことである。
聖書は知恵が詰まった書物である。
例えば、一例として、ヨハネの黙示録は、イエスの教えを守り、パウロが布教を広げたその諸教会へ教えを天に上ったイエスがヨハネへ教えを告げ、堕落した教会へ裁き、さらには世界全体を裁くことになる。では、なぜ、イエスはキリスト教を確立し、布教しなければなrなかったのか。謎であるが、論理的には弁証法である。そういう意味でも聖書は知恵(この場合は知識か)の書物である。
聖書を読まなければ、世界はわからない、と言っておく。